2009年6月27日土曜日

マイケルまで。

すっかり夏もとい梅雨ですね。毎日生きているだけで大汗をかいている長田です。

さて。昨日の話だったでしょうか。
マイケル・ジャクソンが亡くなりましたね。驚愕しました。
マイケル、好きでした。
なんて不自然で格好いい動きなんだろう、と。

不自然さがスタイリッシュで際立っていることは、とても貴重なことだと思います。これは、きわめて個人的な見解ですし、意見を異とされる方も多いとは思いますが。
しかし、それはそれとして、私としては、生み出されたパフォーマンスというのは人工物であって自然なものではない、と主張してみたい。音楽にせよ、ダンスにせよ、それらは意図的に生み出されたものに違いありません。大した根拠ではありませんが、何ら意図を持たないパフォーマンスというものは、私には依然未知のものなのです。発想と志向を置き去りにしては、パフォーマンスがパフォーマンスたる意味も失われると考えるためです。
生み出されるパフォーマンスは、大まかにですが、自然を大きく写し取るものと、周辺を廃棄し目的たる一点を過剰なまでに特化させるものとに分けられるように思います。あまり偉いアーティストさんの例を挙げるのは恐縮ですので、チャックパパンを例に挙げますと、ピアノのタスクさんの即興演奏は前者の発想で作られていることが多いように思いますし、ギターにキスするうちのリーダーは常に後者です。
もっとも、このパフォーマンスの二つの特性というものは、どちらか一つのみで単独であるのではなく、一つのパフォーマンスの内に行為する人独自のブレンドで混ぜられるのです。つまり、先ほど私が述べたような例というのは、そのブレンドに対する評価です。まぁ、素人考えですので、深くは突っ込まないで頂きたいのですが。

さて。それで、話を戻して、マイケル・ジャクソン。
私は生でステージを見たことが無いのですが、ライブ映像やPVは好んで繰り返し見ています。何せ面白いので。
何作か彼の映像を見られた方には、あえて説明する必要もありませんが、彼のパフォーマンスは常に物語りの内で作り上げられます(まぁ、そうでないものもあるのは認めます。多くは、といった程度に受け取っていただけると幸いです)。ゾンビに襲われたり、ギャングが抗争をしていたり、盛り場をうろついたり、といった感じですね。私が面白みを感じるのは、この部分。歩く、走る、扉を開ける、といった動きを踊るという点。マイケルは、その自然な動作を、人工物に置き換えます。しかも、それが自然な動作でありながら完全に彼が生み出した人工物だと分かる形で。
マイケルの自然と人工のブレンドは、さすがキング・オブ・ポップスというだけあって、どのような音楽やダンスにおいてもジャンルの要素を越えて王道のスタイルを持っているように思います。それは、自然から人工への移行です。先に、自然な動作を人工物に置き換える、という話をしましたが、彼は楽曲の展開の中で、最初の自然的人工的表現から自然的な要素を廃棄することで、ストーリーの中に純粋に人工としてのパフォーマンスを導入します。このやり方が非常に格好いいのがマイケル・ジャクソンの魅力ですね。分かり易くいうと、テレビの中でビルを壊していた怪獣が突如テレビから飛び出してきた、といった感じでしょうか。

ここ数年は、何やかやと世間を騒がせていましたが、私はマイケルを大変魅力的なエンターテイナーであると思っております。事程然様に勝手な分析をして、自分が演奏するときに発想をパクらせて貰おうともしました。学ぶことが多く、また単純に酒飲みながら見ているだけで楽しい、そんなアーティストです。
清志郎に次いでマイケルまで。好きなアーティストが死んでいくのは、少し悲しい気持ちになりますね。

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